写真展観覧記録@植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ
午前中、「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ −写真であそぶ−」を東京都写真美術館で見て来ました。
植田正治さんはとても好きな写真家です。去年の5月に鳥取の植田正治美術館でいろいろと見てきたので、東京での展示もまたなんだか違ったプリントで。面白い面を見れたような。
植田さんの作品は全て面白いなぁ、と思うのですが好きな作品のシリーズは「音の無い記憶」シリーズだったりします。
砂丘モードとか、家族の光景なんかも好きなんですけど。そこから勿論入ったのですけど。
作風とか意図とか世界観とか価値観とか、伝えたいものとか残したいものとか。
そういったものを、どこかへ置き忘れてしまったような、一枚。というものに惹かれる事があります。
写真を撮るには「動機」というものが必要であることが多く、それらを求められる事は当然です。
なんというか。超越してしまった、かのような。一瞬の凪みたいな。
その人らしさとか、人格とか、時間とか、被写体が、何であるか、とか。全く関係無く。
ただの、目の前の光景や、色彩や、光に飲まれてしまったような。
恍惚から、感情だけを綺麗に抜いた写真が、たまにあるんです。
そういう写真を見ると、心臓を掴まれたような感覚になります。
お昼はお気に入りの恵比寿にあるデリカフェ。夜はバルになるのです。
色々選べて美味しくてヘルシー系メニュー。午後からお仕事なので飲みませんでしたよー。
植田さんと一緒に並んでいたのはフランスの裕福な家庭に育ったジャック・アンリ・ラルティーグ。
彼の写真をこんなにたくさん見たのは初めてでしたが、いやぁ、まぁ、こんなに裕福だと人生何を考えるのかなぁ。とか思ったりしたけど。笑
なんというか、必死さが痛々しい写真が何枚もあって、とても良かった。
幸せを得てしまうと、それが無くならないように必死になってしまうのだと思う。
それが、自分自身のものではなくて、他者だと余計にそう感じてしまって。
自分は幸せなんだ!!って、確認する為に撮っていたのかなぁ…とも、思いました。
さくまくんが図録を読んでいたので今度聞いてみよう。笑
午後のネコサツ!の帰りに素敵な螺旋階段を発見したのでもう一回撮りに行きたいと思います。
日々、スナップを撮ったり、さまざまな写真を撮るけれど。それってやっぱり羅列しただけでは記録にすぎなくて。
それらを、どうするか?という所から始まるんじゃないかな、と思いました。
テーマ性、というものはお題に乗っ取って撮る事や自己の指針から始めるのだと思いますが、最終的には自分を俯瞰し究極の客観視をした時にミルフィユのようになった記憶から必要な1枚だけを抜き出せるもの、なんじゃないかと。
その1枚は何枚かあって、それを並べると一貫したものになる。
でも、それは「こうしよう!」とか「こう伝えたい」とか意図的、作為的なものではなく。
旅の最後に自然と流れ着く漂流地のような、場所。
そういう場所へ流れ着くのか、ただ沈んでしまうのか、丘で楽しく暮らすのか。
何が幸せで、何が求めるべき場所なのかは、ひとそれぞれ。
結局、突き詰めるべきは知識でもなく場所でもなく、他者ではなく、自分自身でしか、ない。
自分の価値を認める事、自分の価値なんて無いという事、それが同じ事であるという事。
最終的に何処へ行き着きたいか、なんてまだ判らないけれど。
自分は自身の声に従って、生きてゆきたいと思いました。
こういった展示の方法も、とても素敵で、レイアウトや空間の取り方も見やすく、心地よい空気でした。
ちょっと滑り込みになりましたが、良い意味で険の無い写真展だと思います。
そして。帰って来てから、今さっき。写真を撮りました。アネモネです。
ホットワインを飲みながらソファで毛布に包まって、夜通しぼんやりしていることとは。
別に悪い事ではないと思う。
だから、出来るだけ穏やかな思考でいたいと思う。
たまに大泣きして、顔が腫れてもいいし。笑 飲んだ暮れてもいいけど。
最終的には、ゆっくり息を吐く事が出来る自分でいたいな。と思いました。
良いものを見る事は大切だけど、良いものを生み出す事はもっと、大切。
自分が何をすべきか、もっと考える必要があって、時間はもうそんなに無いはず。
冬はベッドを温めてから眠るようにしたら、すぐに眠れるようになりました。
穏やかな気持にしてくれる冬が一番好きです。
あなたの明日が、良い一日でありますように。
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植田正治さんはとても好きな写真家です。去年の5月に鳥取の植田正治美術館でいろいろと見てきたので、東京での展示もまたなんだか違ったプリントで。面白い面を見れたような。
植田さんの作品は全て面白いなぁ、と思うのですが好きな作品のシリーズは「音の無い記憶」シリーズだったりします。
砂丘モードとか、家族の光景なんかも好きなんですけど。そこから勿論入ったのですけど。
作風とか意図とか世界観とか価値観とか、伝えたいものとか残したいものとか。
そういったものを、どこかへ置き忘れてしまったような、一枚。というものに惹かれる事があります。
写真を撮るには「動機」というものが必要であることが多く、それらを求められる事は当然です。
なんというか。超越してしまった、かのような。一瞬の凪みたいな。
その人らしさとか、人格とか、時間とか、被写体が、何であるか、とか。全く関係無く。
ただの、目の前の光景や、色彩や、光に飲まれてしまったような。
恍惚から、感情だけを綺麗に抜いた写真が、たまにあるんです。
そういう写真を見ると、心臓を掴まれたような感覚になります。
お昼はお気に入りの恵比寿にあるデリカフェ。夜はバルになるのです。
色々選べて美味しくてヘルシー系メニュー。午後からお仕事なので飲みませんでしたよー。
植田さんと一緒に並んでいたのはフランスの裕福な家庭に育ったジャック・アンリ・ラルティーグ。
彼の写真をこんなにたくさん見たのは初めてでしたが、いやぁ、まぁ、こんなに裕福だと人生何を考えるのかなぁ。とか思ったりしたけど。笑
なんというか、必死さが痛々しい写真が何枚もあって、とても良かった。
幸せを得てしまうと、それが無くならないように必死になってしまうのだと思う。
それが、自分自身のものではなくて、他者だと余計にそう感じてしまって。
自分は幸せなんだ!!って、確認する為に撮っていたのかなぁ…とも、思いました。
さくまくんが図録を読んでいたので今度聞いてみよう。笑
午後のネコサツ!の帰りに素敵な螺旋階段を発見したのでもう一回撮りに行きたいと思います。
日々、スナップを撮ったり、さまざまな写真を撮るけれど。それってやっぱり羅列しただけでは記録にすぎなくて。
それらを、どうするか?という所から始まるんじゃないかな、と思いました。
テーマ性、というものはお題に乗っ取って撮る事や自己の指針から始めるのだと思いますが、最終的には自分を俯瞰し究極の客観視をした時にミルフィユのようになった記憶から必要な1枚だけを抜き出せるもの、なんじゃないかと。
その1枚は何枚かあって、それを並べると一貫したものになる。
でも、それは「こうしよう!」とか「こう伝えたい」とか意図的、作為的なものではなく。
旅の最後に自然と流れ着く漂流地のような、場所。
そういう場所へ流れ着くのか、ただ沈んでしまうのか、丘で楽しく暮らすのか。
何が幸せで、何が求めるべき場所なのかは、ひとそれぞれ。
結局、突き詰めるべきは知識でもなく場所でもなく、他者ではなく、自分自身でしか、ない。
自分の価値を認める事、自分の価値なんて無いという事、それが同じ事であるという事。
最終的に何処へ行き着きたいか、なんてまだ判らないけれど。
自分は自身の声に従って、生きてゆきたいと思いました。
こういった展示の方法も、とても素敵で、レイアウトや空間の取り方も見やすく、心地よい空気でした。
ちょっと滑り込みになりましたが、良い意味で険の無い写真展だと思います。
そして。帰って来てから、今さっき。写真を撮りました。アネモネです。
ホットワインを飲みながらソファで毛布に包まって、夜通しぼんやりしていることとは。
別に悪い事ではないと思う。
だから、出来るだけ穏やかな思考でいたいと思う。
たまに大泣きして、顔が腫れてもいいし。笑 飲んだ暮れてもいいけど。
最終的には、ゆっくり息を吐く事が出来る自分でいたいな。と思いました。
良いものを見る事は大切だけど、良いものを生み出す事はもっと、大切。
自分が何をすべきか、もっと考える必要があって、時間はもうそんなに無いはず。
冬はベッドを温めてから眠るようにしたら、すぐに眠れるようになりました。
穏やかな気持にしてくれる冬が一番好きです。
あなたの明日が、良い一日でありますように。
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- 2014.01.13 Monday
- 展示会閲覧記録
- 20:59
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- by 桐島ナオ