Vous ne va nulle part. @ EiQ
なぜか、気になる人っていて。それが道すがらだったり、インターネット上だったりする。
- 2018.03.16 Friday
- 撮影記録
- 17:27
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- by 桐島ナオ
なぜか、気になる人っていて。それが道すがらだったり、インターネット上だったりする。
2月の良い天気の午後。久しぶりに樹里ちゃんを撮影させて頂きました。
ariaを撮らせてください。と、一年ぶりのお願い。
溶け合うようなずるずるした雰囲気で、陰鬱な、隠者のような、探し物をしているような。
たぶん、共有している世界は言葉にするなら、そんな感じで。
何があったとかは、お互いにあまり聞かないけど。撮影前のお互いの精神イメージというか、落ちている部分の深度がちょっと似ているかなぁ、と思ったので。
自分の心象そのままに、撮らせて貰いました。
掴みたいわけじゃないけど、最後の一粒みたいに思えて。
でも、実は、求めているのは光じゃなくて、雫だったのかもしれない。
触れたら壊れてしまう。
求めているわけじゃないし、欲しいわけじゃなくて。
ただ、それは綺麗なものだとは、思う。
大切にしている温度、熱、質感、とか。
そういうのを、撮らせて貰っている感覚。
ariaと、絵の話しが出来るのがとても嬉しくて。
なぜか思っている事が同じだったりして。
目の前にキャンバスがないけど、まるで一緒に絵を描いているような感覚になったりして。
雨音が聞こえる中、透明な光と遊ぶ。
そんな強い光はいらなくて。少しだけ。
繊細な星がきれいで。可愛いとかじゃなくて、とてもきれい。
星を集めたらこんな星図になりそう。
雨の蒼が写り込んだ黒が、天幕の紺色になる。
その、先を求めるような気持ちはあるけど、今は「そこにあるもの」を美しく認識出来るように、気をつけて撮影しました。
悲しくて、暗くて、どこにも行けない気持ち。
だけど、美しい、その景色。
哀しいのと美しいのはちょっと似てる。
あなたのことだとしたら、楽しい毎日がそりゃあ一番にきまっているけれど。
自分には当てはまらないんだなぁって。
たぶん、ariaもそう思ってるはず。
怒りみたいな強い感情はもう何処かへ消えて流れてしまって、ずっとないけど。
ひたひたと浸み込んで、水張りをした紙へ滲んで消えないような。
そういう感覚を、閉じ込めたいと思った。
ariaの心に触れたというわけじゃなくて。心は見せてくれているのだけれどね。
通じ合うわけじゃない。踏み込んでいるわけじゃない。交流しているわけではない。
深度が、少し似ていた、感覚。
どうしたって消したくない灯りはそのままで。
それが最後の砦のように、自分の心を守ってくれるような。
森のにおいと、雨音と、水の音を聞きながら、撮影しました。
とても美しくて、シャッターを押す音さえ聞こえないくらい。
この世界でよかった、って。思いました。
aria、撮らせてくれてありがとう。
フィルムは現像に出すので、もうちょっと、待ってて。
島根の旅の目的のひとつ。
木桃さんの撮影。撮影する主題とスタイリングだけ決めていて、撮影場所は前日に決定。
朝5時起き、6時から撮影。
まだ、朝の気配がほの仄蒼く残る山陰の朝。
灯りはつけないで、緩く差し込む朝だけ。
まだあちこちに夜が残っているような濃淡。真っ白なドレスに少し夜が残る。
白いドレスは薄くて綺麗なリネンでできていて。
お互いが好きなデザイナーさんの作品。
毎回そうだけど、何を撮るかということを話しているうちに、どこへ行きたいのかを決めていくような感覚。
それは会話じゃない時もあるし、言葉でもない時もある。
美しいと思うからシャッターを押すのであって、「きれい」でも「かわいい」でもないと思う。
「こわい」とか「つめたい」はちょっと似ている。
感覚の共有。
そこに座っている被写体を撮っているのではなく、お互いの心の中の一部を引きずり出してここに置いたみたいな感覚。
それが何かと言われたら言葉にできないけど、写真にはなっていると思うから不思議。
かなり、暗いけど、それが良くて。
ざらりとした質感。ファインダーでは真っ黒に近い。
浮かび上がる透明な影と白い足。
人間の写真を撮っているというか、精神を撮っているという感覚。
ポートレイトではなくて。そんないいものじゃなくて。
彼女の顔を、撮ってるわけではないのです。
この百合を見た時にものすごく怖くて引き込まれて。目が離せなくなったのは。
植物が持つ命の落ちてゆくさまが、見えたからかもしれない。
雨あがりの美しさと、朝が消えてゆく、かなしさと。
水を含んだ空気が、山百合のけだるさに馴染んで。死の、においみたいだった。
その百合たちの園に、ふわりと混ざれる存在。
木桃さんは存在しないけど、存在する不思議。
あるひとに「このモデルさんは『こう撮られたい』っていう意思がないから、どこでも入れるんだろうね」と言われたことがあって。まさに、そうかも、と。
木桃さんは旅をするひとで、どこにでも行けるんです。でも、どこにも行けない。
その、線引きみたいなものを、必要とする時があったのかもしれないけど。
なんていうか、だんだんよくわからなくなってくる。
表現したいものを形にしていく作業よりも、ただ、脳内の仄暗い蒼い色がずるずると引き剥がされていくような。
それでも、静かな世界は水の中のようで。
光が少ないからこその、溶け込むような紺色。
前回の撮影が台湾だったのを思い出して、ちょっと懐かしい。
でも、ここは台湾よりも、パリよりも遠く感じる。
どこでもない場所というのを探しているわけじゃないし、そういうのを求めているのはもういいと思うけど。
こうして心の中をざくざくと削って洗い出すのは嫌いじゃないし、きれいなものになると思う。
その、幻のような一瞬に、シャッターを押す指がありますよう。
そのまま消えてもいいような、瞬間の光が、美しかったです。
木桃いつなさん、被写体ありがとうございました。
撮影は他郷阿部家でした。
目黒にある雅叙園という古風で和風な場所で催し物が毎年開催されているのはなんとな〜く知っていて。
今年は桜をあまり撮影しない春でした。
毎年だって何回も撮るわけじゃないけど、PhotoCafeと、研究室の2回だけ。
そうして撮った桜にもやっぱり自分自身の思考が写っていて。なんだか、べったりしている気がするので文字にしてここに置いておこうと、思います。
同じカメラ、レンズで撮影。
雨あがりの滴が涙みたいで。でも、それだけじゃなくて、やじろべぇみたいな、不安定さと。
どこかバランスがとれてしまっているような曖昧さが美しいな、と。
触れたら、消えてしまいそうな怖さが、ソメイヨシノにはあるような気がして。
怖い、といってもこの日に撮った桜たちは怖い感じがしないのが不思議。
この広大な土地を世話していたボランティアの植木屋さんが亡くなって。
世話をしてくれる人がいないらしい、伸び放題の桜。
だから、地面につきそうなくらいに枝を伸ばし、折れている子もいるけれど。
それはそれで、美しくて。
その話を聞いているからだと思うのだけど。植木屋さんの気配を感じるような。
少し近い人に、植木屋さんのおじさんがいて。その人のことがとても好きで。
居なくなってしまった事が信じられない。「お葬式」ってやっぱり大事なのかも、と大人になってから思います。
春はお彼岸もあり、亡くなった人を思う季節でもあります。
桜は好きじゃないけど、きっと好きであったろう花だから。その人を思えば、桜も綺麗だと思える。
向こう側、の世界。
その手すりに捕まって、こっちに手を振っているように思えた。
大好きだった植木屋のおじさん。笑顔が素敵な人だったから、そう思うんだろうな。
もちろん、そんな風にまだ全然思えない記憶もあり。ずっと赦せないままで生きていくことが自分にできることなんだ、とか思っているのだけど。
時間が経って、景色を何度も眺めているうちに、自分が歳をとってきて。あなたの年齢に近づいている。
【写真展のお知らせ】
《保護猫・そと猫・ウチ猫》
2017.04.01〜05.08 開催
東京キャットガーディアン10周年企画!
月1猫撮影会ネコサツ3周年を迎えた桐島ナオによる3年分のTCG写真と旅をしたモロッコ猫写真、ウチの猫レオン写真の展示を大塚シェルターにて開催します!
「撮影させてもらうのは少し、久しぶり。」
少し、と思ってたのに実は2年も経ってた。
あーりん、お久しぶり。
お久しぶりです、きりしまさん。
そんな静かな笑顔で向かい合うような、時間なんて本当は関係ないみたいな。
ただ、そこにある美しい景色。 を、撮影してきました。
水が似合うなぁ、と思って。
ariaに被写体をお願いしました。
ariaに被写体をお願いするのはこれで4回目。
今回は琵琶湖で撮影をしています。忙しいスケジュールの中、ありがとう。
ariaとの付き合いは、もう、書くと長くなるので割愛で。
でも、自分の生きてきた方法を肯定されているようでとても嬉しい。
桐島という人間を15年以上見てくれています。
そして、こうして変わらず目の前で対等に対峙してくれている。
植物が好きなのと、水が好きなのと。
普段そこまで主張しないけど、撮影したものや、書いた絵を見るとわかる。
ariaの作る世界、自分が作る世界。
撮影者と被写体って両方とも同じ目線で作り上げる心地よさがある。
どちらかが上でも下でもダメで。
呼吸をするように同じ世界に溶けてゆく感覚。
あぁ、写真を撮ってたっけ、って忘れてしまうくらい。
夜明け。
水面に少し灯が映って。
暖かな水の温度が、生き物の中にいるような、心地よさ。
夜明け前なのに、水がとても温かくて。
桐島も水の中で撮影しているので、びっくりしました。
海じゃないから、波紋がとても美しくて。
ariaが動くたびに生まれる生き物みたい。
撮影していると、息をするのを忘れて一瞬意識が遠のくことがあります。
久しぶりに感じました。
目の前の景色が、美しくて、その世界の中に自分もいて。
ファインダーの中の世界と脳がつながったような。
でも実はMFの単焦点だったので追いかけるのが難しくて。笑
それでもなんとか。食いついてみました。
美しい世界は、声をかけたら壊れてしまいそうで。
少しだけ、髪をあげて欲しい時に声をかけたけど。
あとは、ariaの好きにしてもらっていました。
その人が大切にしている世界、その人が抱えている世界。
写真を撮ると、その中に自分も入り込んでしまう錯覚になる時があります。
でも、この四角い世界は僕の世界。
不思議ととても静かで、宗教画を見ているような気持ちになりました。
植物と人間と水。何が違うのだろうか、と。
透明な水の中には足元に魚が泳いでいて。
同じ世界の中で違う生き物が生きている。
たまたま、ここに、同じ時間に、生きていて。
こんなにたくさんの世界の中で同じ空間に存在する。
そして、自分はその世界をこの中に焼き付ける事が出来るという、喜び。
真面目に、撮らせて頂きました。
本当に、心のそこから全力で撮影に挑んで。笑
でも、力は抜けていて、良い写真がつくれました。
今年は色々思考が巡っていたけれど、やっと自分自身をきちんと沈めることが出来たと思う。
思考は浮ついていては結論が出ない。という持論。
考えて考えて自分の意識を水底に沈めてゆく感覚。息が出来なくて、それでも答えを探すと。
少しだけ、進むべき道が見えるような。見えないような。
結論や理解や愛が欲しいんじゃなくて。自分自身を納得させて黙らせることが出来たらいい。
それが出来たらまた、進むことができる。
ariaを撮っている間、とても心地よくて、美しくて。幸せでした。
撮影させていただき、本当にありがとうございました。
鳥取のお話しや美術のお話しやお仕事のお話しや、いろいろな事をお話し出来て嬉しかったです。
また、逢える日まで。
ariaに恥じないよう、僕はもっともっと、心を磨いておきます。
大切なものを撮らせてくれて、ありがとう。
PhotoCafe合同展 9月に開催!
ここ数年、デジタル一眼レフカメラを持ってから花火大会というものを真面目に撮るようになりました。
フィルム一眼レフの時には撮影していません。撮る気がなかったんですね。
確認できる、というのが何より強みなデジタル。その日の撮影をその場で確認できるから無謀でも撮ってみよう!と思わせる。
で、無謀にもまた撮ってみました。
(過去 2015流山 2015戸田公園 2015隅田川 2014流山 2014手賀沼 2013取手 2011伊佐沼(ロスト))
風邪で結構流れてしまうけど、それでもやっぱり綺麗。
ふんわりと、線を一緒に。
一瞬の光。
ファインダーは閉じてしまうから、肉眼でタイミングを見る。
ある意味カメラ越しじゃなくて自分の目で見ている花火。
こういう系の撮影方法は今この日記を書くために見たら2011年からだったわけで。
今年はもうちょっと進化したい。
と、いっても花火は今年はきっと1回しか撮らないので。
去年しつこく3回も撮ったから割とすんなり撮れる。
今回の隅田花火は浅草寺境内から。
7月のネコサツ!が終わって、18時過ぎてから大塚を出て、上野駅からサクッとタクシー。
するっと浅草寺に入って三脚準備。
と、言っても花火がどのポイントからよく見えるなんて分からないので打ち上がってから移動。
そんな感じのゆるい今年の撮影。
でも、撮りたいのもこんな感じでゆるいから、いいんです。
いそぎんちゃくみたいな、深海の花。
一瞬、火花が散る。
ざぁって、雨みたいに流れて。
燃え上っているみたいだった。
今年は花火を無心で見た気がする。
どうしても花火って「誰か」を想う。
お盆に開催するっていうのもあるし、花火って元々は鎮魂のためで。
いなくなった人と一緒に見るもんだって、思う。
今年は、なぜか無心で見てました。
心がなかったわけじゃないけど、無心って書くと心がない、って意味になってしまう、か。
ちょっと違うんだけど。
「無」ではあったかもしれない。
それまで、ちょっと色々、今年は心がバタバタしたような。気がして。
前半戦。終わりました、って。誕生日が過ぎて。
6月の誕生日が終わって7月になると、後半戦の気分。
長い長い7月が終わって、一呼吸つける。
でも、これからまた暑くなるから気をつけないと。って遠くにいる自分が言う。
今年は、無心、というか。
自分自身を投影して花火を撮っていたような気がします。
死んだ人を想うように、自分の半生をぼんやり眺めていたような気持ち。
後悔とか反省とか、そういうんじゃなくて。単純にぼーんやり。
あー、これはこれで綺麗だなぁ、って。
でも、この花火が撮れた時はとても嬉しかった。
ちょっと、体温がぶわって、上がった気がしました。
高い高い火球。 あ、これは、大きいな。ちょっと引こうかな、って。
400mmから80mmに変えた瞬間、
ざあって、一瞬で空に青い花が咲いた。
思わず口を開けて見ていた気がします。
青い花火って、本当に綺麗。
今年はこういう小さくたくさん一気に咲く花火がいくつかって、とても綺麗でした。
で、今年の想いを込めた写真。
宇宙から生まれたみたいな光。
まだ、星にもなれない、空気と意識の半々みたいな。
もっと綺麗に撮れた1枚があるのですが、それはここには載せません。
9月にあるPhotoCafe合同展示に、添え役ですがだしますので。
良かったら見てやってください。
桐島が10年間やっている写真教室の生徒たちによる展示会、5回目です。
そして、来年も花火を撮れますように。
色々頑張ります。
PhotoCafe合同展 9月に開催!
お仕事の帰り道。
乗り換えの上野駅のホームから見た夕焼けの最後がとても綺麗で、慌てて改札を出たけど。
まぁ、間に合わず。
きっと、この夕焼けで蓮池を撮ったら綺麗だったろうなぁ…とか。思ったのですが。
陽が落ちたあとの最後のグラデーションがとても綺麗に葉を透過してくれたて。
ちょっと、待っててくれたみたいでとても嬉しい。
そして、すぐに紺色の空に。
でも、東京の空は明るいのです。
暗い場所を見つけて樹からこちらを見つめている月を。
夕焼けに誘われて不忍池にやってきたけど。
偶然、今日は上野不忍池灯籠流しでした。
弁天堂が見えるボート池で、蝋燭の入った小さな紙の船が浮かびます。
ぼんやりスカイツリーも見えてるけど。
蝋燭の優しい光は都会のギラギラの光に負けてしまって。
あんまり綺麗に見えないのです。
なんとか。暗い場所を探すけど。
それでも、なんだか、なんだか。うーん。
望遠レンズにでかい三脚を立てているカメラマンがどどん、と列をなしていたので有名なイベントだったのだと思います。
初めて、知りました。。。綺麗です。
灯りを流している間中、ずっと僧侶たちによる読経が響いて。詠歌かな?
ちょっと、詳しくないのですみません…。
でも、東京で虚無僧(あのカゴかぶって尺八吹いてる人です)を見たのは初めてだったのでびっくり。
本格的な会なのですね。
あー。もっともっとビルの灯りがなかったら綺麗なのにー。と、思いました。
真ん中で篝火も炊かれていたのですが、やっぱりビルの灯りの方が目立ってしまって。
うーん…と思っていたら、隣にいた小さな女の子が「おかーさん!これ、ラプンツェルみたいだね!きれーだね!」と言っていて「そうそう…」と心の中でお返事してたら「え?何言ってんの?ラプンツェルは空に飛ばすから違うじゃん」と…母…。
いや、本質としては同じだし、灯籠の意味も一緒だし。娘さんの方が的を得てるよ!!と言いたくなりました…。
むすめよ…母の言うことよりも自分の感性を信じてまっすぐ育ってね…と念じておきました。
結局、池をぐるりと一周しました。
そのうち人も少なくなってきて、流れ着いた灯りがぽつぽつと。
岸に近づいている場所を見つけて。ぼんやり眺めて。
今日は58mm単焦点1本しか持ってなく。しかもMFだったので、見えない見えない。笑
最初はなんで望遠レンズ持ってなかったの...とか思っていましたが。
結果としてはこのレンズだけでよかったです。
確かに望遠レンズで切り取ればいい感じに背景が圧縮されて「きれいな写真」にはなるだろうけど、かなりの人がそういう写真をここで撮っているはず。
じゃぁ、自分もそれに習う必要はないかな、と。
ぼんやりと、揺れる灯りをみながら、暗がりで、さらに暗いファインダーをみていました。
ゆらゆら、くっついたり、離れたり。
いつのまにか読経は終わって、ぬるり、とボートのおじさんが現れてオールでいくつかの灯籠を沈めていきます。
音もなく消えて、池に沈んでいく灯りをみながら。
気持ち良いピントリングのトルクに、じっくりと焦点を合わせて。
久しぶりに「写真」を、撮りました。
ばらばらと、浮かぶ、灯り。
都会の中の黒い池に浮かんで、それで、今日が終わればお炊き上げ。
供養、というのは生きている人のためでしかなく。
肉体がなくなればそれまでの記憶や、感情や、想いも、すべて無に還ると思っています。
輪廻や死後の世界はあればいいね、と思っていますが、生きている人のためであると思ってもいます。
ぽつぽつ、灯りの消えた灯籠に。
寄り添うような灯り。
物に気持ちを寄せるのは、生きている人間だけ。
そこに自分の気持ちを乗せて、どうにかして貰ったつもりになる。
どうにも、ならないから、どうにかして貰ったことにしておく。
そうすることでしか、何も片付けられないんだと思うけど、何もしないよりずっといい。
とぷん、 とぷん、 と。 音もなく溺れるように、池に消えてゆくいくつかの灯籠が、とても綺麗で。
きっとラプンツェルみたいにこれが空に消えていったら、どこかに行けそうな気がするのだけど。
池に沈んでいくだけじゃ、どこにも行けなくて。ずっと此処に思念がたまって、澱みになって蓄積していきそうだな、と思いました。なんか、日本的だな、って。
生きている間に、美しい物をみて、生きている自分の為に、残すのだと思う。
そうして、記憶を水底に沈めて、ずっと忘れないでいられたら。
死ぬ直前まで、覚えていられる気がしてしまうのです。
たぶん、今日の灯籠の美しさは、忘れない。
あなたに、見せたかったな。